書いちゃったから掲載

 僕は、本屋に週3位のペースで行っている。駅の本屋が多いのだけれど、とくに目的が無くても寄ってみる。で、そうすると毎回買いたい本が増えていってしまう。タイトルに惹かれたり、何となく惹かれるということもある。だけど、大抵実際に購入できない。お金が無いという根本的な理由で。ただ、それでもある程度の冊数の文庫本は買っている。
 で、最近どんな本を読んでいるのか、だけれど、最近は女流作家に手を出し始めた。だから、さらに買いたい本が増えてしまった。以前は高村薫の「マークスの山」を高校時代に読んだことはあったけれど、あれはサスペンス物だったので作者が女性だとか言うことはまったく意識しなかった。ただ、最近は角田光代の「対岸の彼女」であったり、江國香織の「泳ぐのに、安全でも、適切でもありません」だったりに手をだしていたりする。今までそういった女が女を書いた本はまったく読んでこなかったので、本の選択肢がぐんと広がってしまった。で、そういった作品を読んでみて感じたことは、男と女はやっぱり違うなということであった。面白くもなんとも無い感想だけれど。
 僕は、前々から「男女が完全にお互いを理解しあうことは不可能だ」と思っている。そいう意味では僕は最低で、冷めた男だと思われるだろう(実際そうかもしれないけど)。ただ、誤解しないでもらいたい部分としては理解すること自体を放棄しているのではなく、“完全に”理解することは不可能だ、と思っているということである。理解することには勤めするし、しようと努力することもできると思うが、“完全に”は無理だと思っているのだ。まあこれは男女の関係に限らず、人を、としても同じ考えではあるけれど。そう考えると僕はやっぱり最低なのかもしれない。
 読書をしていると色々考えたり感じたりして、励まされることも多いが、僕は根がネガティブ人間なので落ち込むこともかなり多くある。それでも、読書は止められない。たぶん、僕は生粋の妄想族だからだろう。物語を読み登場人物の顔を妄想し、結末から受けた事を自分に反映して妄想し。それが楽しい。だからやめられない。本を読むなんて高尚なことじゃなくて、それぞれの楽しみ方があればいいのだと思う。僕の楽しみ方は妄想すること、想像すること、考えること。頭の中の世界は果てしなく広く、深い。だから、どれだけ本を読んでも、本を読む楽しみが失せることは、無いだろう。そして、今日も僕は、妄想欲を高ぶらせてくれる作品を探しに本屋へと足を運ぶ。